お友達が京都で朗読会をするというので、お手伝いに行ってきた。
朗読する本は「大きな木」という絵本。あらすじはこんな感じ。
少年と一本の大きな木は、とても仲良しでした。
少年は木に登ったり、りんごを食べたり、枝にぶら下がったりして、毎日のように木と一緒に遊んでいました。木も、少年と過ごす時間が大好きでした。
しかし、少年が成長するにつれて、木のもとを訪れることは少なくなっていきます。
やがて大人になった少年は、久しぶりに木のもとへやって来ます。しかし、昔のように遊ぶためではなく、自分の願いを叶えてもらうためでした。木は少年が喜んでくれるならと、自分のりんごや枝、そして幹まで、持っているものを惜しみなく与えていきます。
少年の願いを叶えるたびに、木は少しずつ姿を失っていき、ついには切り株だけになってしまいました。そして少年も、長い間姿を見せなくなります。
それから長い年月が経ち、年老いた少年が再び木のもとへやって来ました。
木は「もうあなたにあげられるものは何もない」と悲しみます。しかし、年老いた少年が求めていたのは、お金や家、何かを手に入れるためのものではありませんでした。ただ、疲れた体を休ませる場所が欲しかったのです。
そこで木は、残された切り株に少年を座らせてあげます。
かつてのようなりんごも、枝も、太い幹もありません。それでも、もう一度少年のそばにいることができた木は、とても幸せでした。
この本を読んで、誰かは無償の愛に感動するだろう。また、他の誰かは見返りを求めない愚かな木に苛立ちを覚えるかもしれない。
この絵本を知って、「世界は贈与でできている」という本を思い出した。
その本で筆者はいう。「【贈与】とはすでに受け取ってしまった何かに対して返礼することであり、見返りを求めてする行動は【交換】に過ぎない」と。
一般的に、人は何かを与えられたらその人にお返しがしたくなる。だから、自身の行動を【贈与】としたいのであれば、相手に「与えられた」という感覚を持たせてはならないのである。なぜなら「与えられた」という感覚は人に「お返し」をさせ、その時点でそれは【贈与】ではなく【交換】になってしまうから。
つまり【贈与】は受け取った瞬間それが【贈与】だとは思えないのである。
【贈与】は連鎖するものだ、と筆者はいう。
贈与された者が他の誰かに同じように贈与をした時に初めて【贈与】が完成する。親からの無償の愛を無意識に受けていた子供が次は自分の子供を愛するように。
さて、「大きな木」の少年は「贈与」ができていたのだろうか。「木」が与えてくれていた全てを他の誰かに返すことはできていたのだろうか。
絵本の中には少年が誰かに何かを与えたのかは描かれていない。だから少年が【贈与】できていたのかは分からない。
もしかしたら私たちも少年とそれほど変わらないのかもしれない。
今まで自分が受け取ってきたものを、私はどれくらい覚えているだろう。家族が当たり前のように用意してくれたご飯。誰かが何気なくかけてくれた言葉。学校で教えてもらったこと。仕事で助けてもらったこと。落ち込んでいた日にただ隣にいてくれたこと。
その瞬間にはありがたいだなんて思わなかったものに、今の自分はたくさん支えられている。
【贈与】は普段自分がたくさん与えられているということに気がつくことなのかもしれない。
「大きな木」は“与えることの美しさ”だけを描いた物語ではなく、「受け取った私たちはそのあとどう生きるのか」を問いかけている物語にも見えてくる。
私はこれまで、どれだけの「大きな木」に出会ってきただろう。
そして私は誰かにとっての「大きな木」になれているだろうか。
あ、そういえばコーヒーの試飲会もさせてもらいました。

ウレシイ⭐︎
おしまいおしまい。
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