wombatchang’s blog

海と夏と猫が好き

未練たらたら大魔王と献血の話

包丁で手を切ってしまった。

 

頑張ってチキンカレーを作っていたら手を切ってしまった。せっかく頑張っていたのに報われなくて無理である。あ〜やってらんね〜尾崎豊でも聞くか〜。

 

原因は玉ねぎが大きかったことと肉用にしている小さな包丁を使ったことであろう。玉ねぎが大きすぎで変に力を入れたら小さな包丁がくるっとひっくり返って手を切った。

 

にじむ血を見ながら思った。私、献血好きだったなあ。

 

学生の時私はよく献血に行っていた。献血カードにはその異常な回数が刻まれている。私の誇り・勲章だ。なぜ献血によく行っていたのか。それは献血がめちゃめちゃストレス発散になるからだ。

 

自分から不要なものが出ていく感覚、なんかめっちゃスッキリするのだ。くだらない悩みや抱えなくても良いはずのプレッシャー、昨日言われてめちゃめちゃショックだったこと、自分の身体から出ていく血液を見ていたら、圧倒的に不要なマイナスな感情が血液と一緒に自分の中から出ていく感覚になる。そして帰る時には肩が少し軽くなっている気がする。もっと軽くなりたい〜!!!!!!!あ、これ献血の話をしています今。

 

シャワーを浴びている時もそうだ。頭から強めのシャワーを浴びで髪の毛をわしゃわしゃと洗う。身体もゴシゴシして最後は綺麗に流す。そうしたら一日のモヤモヤやストレスが一気に流れていく気がするのだ。

 

私はもともと超完璧主義のストイック大魔王だった。ある日「あ〜ストイックめんどくせ〜、田舎でのんびり暮らして〜」ってなったんだけど長年連れ添った大魔王はなかなか私から離れてくれない。未練たらたら大魔王である。のんびりゆったり過ごしたいのに耳元で大魔王が「ストイックに〜完璧に〜」と唱えてくるのでめっちゃストレスだった。

 

友人に完璧主義から脱却できないと相談したら、「目に見えないものは物理的にゴミ箱の中に入れてポイすることできないから、頭の中で出来るだけ具体的に形や色、重さを想像してそれを頭から出すイメージをしたらいいよ」と教えてもらって実践した。効果覿面だった。さらば大魔王、これからは互いの人生を生きようぞ。

 

人間は意外に単純なのでいとも簡単に騙すことができる。シャワーを浴びて体の汚れと一緒に今日言われたチクチクを流してなかったことにもできるしずっと抱えていた不安を外に出すこともできる。

 

嫌なことがあったらどんどん流していこうな!おめえら!!シャワーと献血トラックさえあればオレらの未来は明るいぞ!!!!

 

おしまいおしまい

裏設定を作るドン!

ほっぺと鼻の上にニキビができました。

 

昨日の夜お化粧を落として鏡を見たら鼻の上に1つ、頰に2つニキビができていた。ほうほうどうやら私の身体が不調を訴えているらしい。早速ネットで調べてみると鼻のニキビは質の悪い食事、頰のニキビは睡眠不足と腸内環境に原因があるということがわかった。

 

私はニキビを身体からのお手紙だと思うようにしている。少しでも健康に支障をきたす行動をすると身体はニキビを発生させるという方法でどこが悪いかを教えてくれるのだ。「ちょっと姉さんお酒飲み過ぎとちゃいます?」の意味を込めて眉間にニキビ、「今胃荒れてますわ、脂っこいもんばっか食べてんと野菜食べてください」の意味を込めて人中にニキビ。必死に教えてくれるのが可愛いのでぜんぜん愛しちゃう。

 

とは言いつつニキビができる原因がわかったらもうニキビは全くの用なしなので徹底的に消しにかかる。新大久保で店員さんに激推しされて買ったアレルギー用のクリームをつけてニキビパッチを貼る。これで奴らはイチコロだ。明後日には跡形もなく消えているだろう。

 

世の中で一般的に全く望まれていないものってどうして消滅しないんだろう。ニキビもそうだし雑草もそうだしゴキブリもそうだし。現代のあらゆる技術を使って消そうとしているのにぜんぜん消せないの普通にすげえって思う。まだまだ技術の進化が解決できないものって身近にたくさんあるんだろうなって思ったら謎のロマンを感じてしまう。

 

でも今思った!一見全く望まれていないと思われているものにももしかしたら存在の意味があるのかもしれない。そういえばさっき「ニキビはお手紙なので愛している」と書いたところだったのを思い出した。危ない忘れ去るところだった。

 

ニキビだけじゃなくて雑草もゴキブリも世界で重大な役割を背負って生きているのかもしれない。こんなにも疎まれていて、除草剤やらゴキブリホイホイやらで根絶させようとする人間がたくさんいるのに自分たちの役割を果たすために一生懸命子孫を残しているのかもしれない。そう思ったら涙が出てしまう、その健気さに。

 

この極めて危ない思考回路は人間関係のストレスを軽減させるのにとても役に立つ。苦手な人や合わない人から距離をとった方が良いことは森羅万象周知の事実なんだけど社会で生きていたらそうはいかないこともある。関わりたくないけど関わらなければならない時、その人の嫌な面だけを見るのではなくて「こいつはとてつもなくウザいがもしかしたら何か大きなミッションを背負って悪役を演じているのかもしれない」という裏ストーリーを勝手に作り上げることでなんかそこまで嫌ではなくなる。

 

ところでなんの話をしてたんだっけ

 

おしまい

 

 

ドーナツの残骸と薄くなったコーヒー

ダメダメな1日を過ごしました。

 

一昨日と昨日で会社のイベントがあり私はそれの実行委員だったのでここ2週間くらいめちゃめちゃバタバタしていた。入念に打ち合わせして臨んだんだけどやはり思いがけないことがあり、二日間めっちゃ大変だった。普通に臨時給料もらえません?

 

昨日18時くらいに帰宅して2000円のサラダをウーバーした。しかし到着を待っている間に疲れがピークに達し、サラダをお迎えした時には食べることすら面倒になっていたので立ち食いそばくらい勢いよく胃に流しこんだ。「なんでてめえ2000円もするんだよ」と呟くことで、「2000円もするサラダを立ち食いそばくらい早く食った」という愚行の責任を「2000円もする身の程知らずのサラダ」に押し付けることに成功した。

 

サラダを一気に食べてお風呂に入って気がついたら湯船の中で眠っていた。溺れ死ぬ前にベッドに入らなければとなんとか立ち上がってびちょびちょのままパジャマを着てベッドに入ったところまでは覚えている。おそらく21時くらい。そして目が覚めたら朝の10時だった。

 

「あーーーーーーだめだ、ぜんっっぜん疲れが取れていない」身体のあちこちが痛い気がする。瞼も重い。体が重い。喉が渇いた。でも動けない。一週間分の洗濯物が溜まっていることを知っている。でもできない。床には髪の毛が落ちている。掃除しなきゃ。

 

「何もできない、何もしたくない」ことを知った瞬間、しなければならないことをたくさん思い出す。そしてそれらをできない自分が嫌になる。身体が疲れているはずなのに心までダメダメになってくる。

 

精神状態が健康な時はしなきゃダメなことを放置したところで「ま、人間ですからね〜」と鼻をホジホジできるのにダメダメな時はそうはいかない。落ちるところまで落ちてあれこれできていない自分を責めて、あの時あの人にかけた言葉はよくなかっただのあの仕事の最終報告をした時の上司の顔は絶対失望した時の顔だだの根拠のない勝手な妄想が1人歩きを始める。

 

ダメだダメだとスマホを見たら全部うまくいってそうな友達が仕事での成功のお祝いにお高いランチを食べていた。嫉妬心と嫉妬する自分のカッコ悪さが嫌になる。

 

そういう日は何をしてもうまくいかないことを知っている。だから何にも考えないことにした。自分に何も問いかけず、意識的な選択もせず、全て流れに身を任せる1日にすることにした。

 

少し雨が降っていたけど傘をささず外に出た。日焼け止めもしないで。
結構短いデニムの短パンをはいた。わがままボディだけど。
コンタクトをせずメガネをかけた。この前踏んで少し歪んでいる。
猫背で下を向いて歩いた。本当は口角を少し上げて背筋を伸ばして歩く人間になりたいのに。

好きでも嫌いでもない曲を聴きながら目的もなくなんとなく歩く。別に食べたくないけどドーナツを3つ買った。また歩き始める。ドーナツのチョコレートが溶けてきたけどどうでもいい。喉は乾いていなかったけどカフェでコーヒーをテイクアウトした。なんとなく1番大きいサイズにした。そしてまた歩く。

 

家に着いたらドーナツはチョコレートでべちゃべちゃになってコーヒーは氷が溶けて薄くなっていた。食べたくないし飲みたくないけど口に入れた。適当にYoutubeを見る。気がついたら寝ていて今に至る。

 

目の前にあるドーナツの残骸と一気飲みしたコーヒーのカップを見て「生活だな〜〜〜」と思ったら少し笑えてきた。よし、今日もちゃんと生きた。頑張って生きた。えらいぞ自分!!!

 

おちまいおちまい

「好き」は梅酢らしい

胡麻団子をウーバーしました。

 

あれ?私前も胡麻団子の話したっけ?「胡麻団子」と書くときに「ごま」と書くか「胡麻」と書くかで10分くらい迷った記憶がある。あれはブログじゃない?仕事か?「胡麻団子」って書く仕事ってなんだよな!言わないよ〜ウヘヘヘヘヘヘwwwwwwwwww

 

私は胡麻団子がめちゃくちゃ好きだ。好きになったきっかけは1年半くらい前によく行く台湾まぜそばのお店で胡麻団子をサービスしてもらったことだ。今までも胡麻団子食べたことあるはずなのに、そのお店で口に入れた瞬間衝撃が走った。「おおおおおおおおおお美味しい!!!!!」その日から私は胡麻団子が大好きになった。


何かを好きになる時って意図してではなく偶然であることが多い気がする。サービスでもらった胡麻団子が美味しすぎて大好物になったとか、雨宿りをするためだけに入ったカフェが素敵で常連さんになってしまった、とか。

 

世界に好きなものが多ければ多いほど人生は豊かになると思っているんだけど、意識的に好きなものを増やしていくのってめちゃめちゃ難しい。なぜなら好きになろうと思って好きになることってほとんどないから。

 

子供の時、のだめカンタービレに大影響を受けた私は「あたい、ピアニストになる!」と意気込みピアノ教室に通い始めた。しかしレッスン初日に教室に置いてあったハンドベルに興味を持ってピアノそっちのけでハンドベルを鳴らし続けた。その結果ピアノ教室に通った7年くらいの内5年はハンドベルが占めている。母が泣くぞ

 

自分の経験より「好き」は行動や出来事の副産物であるだということが判明した。英語で言うとby-productだ。なぜ英語で言ったかと言うと「副産物って英単語知ってるんだから!えっへん」だからだ。

 

ちなみに副産物と言えば梅酢である。梅干しを作る工程で意図せずできるのだ。「好き」は梅酢だと覚えていてください。

 

「好き」が他の何かの副産物、意図せず発生するものであるということは私たちが好きなものを増やすためにできることは一つだけ。とにかくたくさん行動して色々なものを見聞きし多くの人に出会うことだ。

 

私はバンタンとセブチのオタクなんだけどオタク友達と彼らのことを好きになったきっかけを話していたら10人中10人が「意図せず」と答える。たまたま音楽番組を見た時に彼らが出ていたとか、車を運転している時に流れていたラジオで彼らが紹介されていたとか。誰も「彼らを好きになろう!」で好きになった訳ではないのだ。

 

好きをたくさん見つけるために今日も何か行動しよう。YouTubeを見てみるとかTikTokを見るとか新しい通販アプリをダウンロードするとか。

 

行動の例がとても引きこもりだが行動には変わりない。がはははははははは

 

おしまいおしまい

 

アイドルは世界平和に貢献しているというお話です。

夏のボーナスが入ったら父と母に淡路島の高級お寿司屋をご馳走すると約束しました。

 

私は結構優しい子である。友達やパートナーに何かをプレゼントすることが大好きだし、ゴミが落ちていたら拾うようにしている。駅でしゃがみ込んでいる人を見つけたらお水を買って持っていくしね!!

 

そしてポイントは見返りを求めている訳では一切ないということだ。忖度なしに天使である。背中に羽が付いていないことが不思議で仕方がない。ランドセルにも与えられているのに。

 

しかし私は自分が優しさのサイクルの最初の人になったことは一度もないということを知っている。誰かにしてもらった優しさを誰かに返しているだけ、優しさのサイクルの中にいるだけであることをちゃんと知っている。

 

私が父と母にお寿司をご馳走するのは先に2人が美味しいものをたくさん食べさせてくれたから。友達やパートナーにプレゼントをするのは過去にたくさんプレゼントしてもらったから。うずくまっている人に水を渡すのは電車で貧血になって下車した時に同じことをしてくれた高校生がいたから。常に優しくありたい、誰かを愛していたいと思うのは見に余るほどの優しさや愛を家族や友達、パートナーからもらったから。

 

私は過去にしてもらったことに対するお礼をしているだけだから「見返りを求めない」という表現自体が少し違うのだ。天使ではないかもしれないが幸せ者であることは間違いない。いっちばんいいじゃん幸せ者が!!!

 

この優しさの輪をどんどん広げていくことができたら世界はより良いものになるのかもしれないなと思う。私が誰かから優しさをもらって私が他の5人に優しさを返してその5人がまた他の5人に優しさを渡す。そうしていったら地球上の80億人くらい?にすぐ優しさが行き届いて今より少しだけ良い世界になるのでは?と思う。

 

いつでもギブの精神を持つとか疲れちゃうしそんなの続かないんだから誰かからのギブをたくさん受け取る人であっていい。むしろその方が良いそして受け取った優しさを原動力にして誰かにギブすれば良い。それだったら続けられるかも。

 

私はK–POPアイドルのオタクだ。迷惑な方のオタクなので会話の中で少しでも彼らの話題が出たら永遠に彼らの魅力を話し続けてしまう。挙げ句の果てには解散後おすすめのMVやチッケムをLINEで送り続ける特典付きだ。

 

彼らがよく「僕たちはあまりにたくさんの愛をもらっているからその愛を少しでもみなさんに返したい」と言っている。でも私は逆だ。彼らからたくさんの愛をもらっているから私がその愛を返したいのだ。彼らを応援するのも一つだし彼らがくれたポジティブなメッセージを誰かに伝えるのも一つ。

 

めっちゃ健康的だな!!!と思う。そしてその健康的な関係がオタクの数だけあることが事実。知らんけど。つまりアイドルは世界平和に貢献しているというお話でした。

 

おしまい

 

 

 

 

 

 

 

 

忘れてしまうものとポキサラダ

近所のサラダ屋さんをリピしました。

 

初めてである。サラダを美味しいと思ったのは。そもそも私は野菜を好まない肉食女子なのだ。野菜の中でも最も不得意とするのが生野菜、つまりサラダである。ドレッシングをかけて食べようとしたらレタスの端がピュンってなって顔にドレッシングがかかる。大惨事だ。サラダを食べ終わった時は必ず顔がドレッシングまみれになっているのが普通に嫌だ。

 

友達にこの話をしたら「食べるのが下手なんじゃない?」と言われて納得した。私は食べるのが下手くそらしい。

 

そんな生野菜が嫌いな私でもたまにサラダボールに憧れる時がある。おしゃれなサラダを欲する日がある。そんな時に出会ったのが近所のサラダ屋さんだ。

 

基本のサラダがあってそこにエビとかアボカドとかキヌアとかローストビーフとか自分の好きなものを追加していく。既にセットになっているメニューもあるんだけどカスタマイズでも既存のものでも注文が入ったら目の前で定員さんがサラダを作ってくれる。野菜の刻み方まで選べるのが驚きだった。

 

初めてそのサラダ屋さんへ行った日は既存のメニューではなく自分で選ぶサラダにした。小さめに刻んだレタスにトマト、マッシュルーム、キヌア、えび、アボカド、卵、モッツァレラチーズなどを追加していく。ドレッシングは店員さんおすすめのシーザーにした。お会計の時に知ったのはサラダ屋さんのサラダは2000円を優に超えること、そのお店ではPayPayが使えないことだ。

 

お財布の中が52円のみになったことも衝撃的だが、そのサラダを食べた時の衝撃には到底敵わない。なんだなんだこの美味しすぎる食べ物は、、、!?本当にこれはサラダなのか!?私が知っているサラダは食べているうちに顔がドレッシングまみれになる不快な食べ物ぞ!?

 

こうして私は無事このサラダ屋さんのファンになって今日もリピしてきた。

 

私は「このカフェめっちゃいい!」とか「この雑貨屋さんまた来たい!」とか思っても2回目は行かないことが多い。すぐに忘れてしまうのだ。その時はめちゃめちゃ感動していても時間が経つにつれそのことを忘れてしまう。

 

前まではそれがめっつっっっっっちゃ嫌だった。悔しかったし寂しかったし悲しかった。感動した言葉とかも同じで忘れてしまう。それが嫌で嫌で、素敵なものに出会ったらメモをするようにしていた。

 

しかし最近気がついた。メモをしなくても残っているものは残っているということを。忘れてしまうこともたくさんあるが大切なものはしっかり自分の中に残っていて自分の血肉になっているということを。

 

あの日親友に「この曲あなたみたいだね」と言われた曲は毎日聴くし、心の中には尊敬する人の言葉がある。

 

もう忘れてしまったあの日の話も自分の価値観や考え方、試練の乗り越え方にしっかりと影響を与えている。

 

今日そのサラダ屋さんで買ったのはポキサラダ。ハワイの風を感じるZE⭐︎

 

おしまいおしまい

 

 

お昼のネオンと背徳感

お昼に光るネオンが好きです。

 

「お昼のネオン」というと語弊がある。私はお昼の明るい時間に煌々と光るネオンの看板が大好きなのだ。東横innの青いネオンでさえも昼であれば私の目には綺麗なものに映る。

 

その理由を私は見つけてしまった。ズバリ「背徳感」である。お昼の明るい時間なのにこんなに光っていて本当に良いの〜???である。人はなぜだか普段はダメだと節制していることをすることに快感を感じる生き物らしい。私調べなので疑いの余地はない。

 

この間ユニバに行った時に久しぶりにハリウッド・ドリーム・ザ・ライドに乗った。流石に名前が長すぎる。ハリドリって書こうと思ったんだけど「何それ!?ハリガリ!?カードゲーム!?」となりそうなので略さず言いました褒めてください。

 

アトラクションの最中、叫んでいる時めっちゃめちゃ気持ちよかった。めちゃめちゃ久しぶりに大声を出したと思う。あーーーーーーーーーーースッキリした⭐︎

 

なぜ大声を出すと気持ちが良くてストレス発散になるのかも「背徳感」が関係していると思っている。もちろん大声を出すこと自体にヒーリング効果的なやつがあるんだろうけど日常生活で大人がしてはいけないとされている「叫ぶ」を合法的にできることをなんだか特別に感じているんだと思う。「叫ぶ」ことだけに意味があるのではなくて「普段許されていない叫ぶ行為」に価値があるのだ。

 

コストコのバカでかティラミスもそうだ。本当にあれをあのままスプーンですくって食べたいかと聞かれたらそうでもない。ただ私は普段は絶対に許されないあんなに大きなケーキを取り分けることなくスプーンで直食べするという行為にワクワクしてときめいてしまうのだ。

 

少し前、「リズム0」というパフォーマンスアートのことを知った。あらかじめ用意したアイテムをお客さんに見せ、アーティスト本人が6時間もの間自分に何をしても良いと彼らに宣言するのだ。そのアイテムの中にはナイフや拳銃、釘など命を終わらせることができる道具も含まれている。

 

最初は消極的にパフォーマンスに参加していた観客は時間が経つにつれ凶暴になり、3時間が経過する頃にはアーティストの服はビリビリに破られ4時間がすぎる頃には肌が切られ遂には銃口が向けられたという。彼女を擁護する人がいたことが救いである。

 

この結果から「集団心理」や「人間が内に秘めている凶暴性」を唱える人もいるが、私はこれも「背徳感」によるものだと考えている。人間には元から凶暴な部分があって普段は法律によって抑えられている、ではなくて凶暴な一面がない人でも「人に危害を加えることはダメ」な世界を生きている時に突然「この人にだったら何しても良いよ!」と言われたら人に危害を加えたい、暴力をしたいという欲望が生まれてしまうのではないだろうか。

 

ルールに背きたいと心のどこかで思っているのは大人も子供も一緒だと思う。ルールに背くことでなんらかの快感を感じてしまうのも。でもいつでも自分に問い続けていたい。それが本当に自分がしたいことなのか。本当にコストコのでかいティラミスをでかいスプーンで食べたいのか。ダイエット中にカラムーチョのファミリーサイズをパーティ開けしたいのか。

 

おしまい